念仏会
第26回 念仏会(9月9日)
7名の参加がありました。4日から6日まで開催された松禅院仲秋念仏大会後の念仏会です。松禅院に行かれたTさんもHさんも参加。しかも、7日から8日にかけての、住職が「癌」になったのではないか…という、「住職活動日記」で報告済み、解決済みの騒動の後の念仏会です。
ブログを読まれていた方もありまずが、経過を報告。7日に、健康診断の胃カメラで、「胃癌の疑い、胃のcardia部分(胃上部または噴門部)に、悪性所見を示唆する隆起性病変あり…」と診断され、写真を見ても「これは…」と思われる症状がありました。ところが、8日の日赤での胃カメラ検査では、すべての症状がなくなり、写真にも何も映らなかったという不思議な出来事が起こったのです。
お念仏の功徳をいただいた、仏の計らいをいただいた…、皆さんの「願」をいただいたとしか思えないような事実。まさに、生かされている生命の実感をいただきました。
法話は、中野善英上人遺墨より、
「葉がついていてもどう堂々 葉を落としていても堂々 千年の老樹が 千年の気品を誇っています いや その内に刻んだ幾多の苦辛が… 気品となって輝いているのです 多くの文化賞に輝く偉人をみても 常に この感を深くします」
千年の老樹とは、比叡山飯室谷、松禅院の大杉のことでしょう。この地において樹下石上、独座独行徹宵の大念仏を続けられた善英上人。私たちの念仏求道の営みが、様々な艱難辛苦を越えて、気品となって光り輝きだしてくる、その日まで、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と声に思いを凝らしてお念仏を続けてまいりたいと思います。
第25回念仏会(7月8日)
6名の参加がありました。最初の法話は、中野善英上人「遺墨集」より、
「柿が渋いからとて アワテテ捨てることはいらぬ。 甘くなる。 人生も甘くなる。 渋い人生ほど甘くなる。 渋いのが甘くなったのは ただの甘味とは違う。 外からつけた甘味でなく 内から湧く甘味 コレは洗っても たたいてもおちぬ。」
自分の中の渋さは、いつ甘味に変わるのでしょうか。何をすれば、甘味に変わるのでしょうか。
関谷上人は述べてみえます。「み仏は清浄、歓喜、智恵、不断光をもって、何とか、この私の渋みを取り除いて、霊化、融合、淳化して、他人に対して温かいこころで接し 自らも喜びに満ちた暮らしを」と…。
南無阿弥陀仏と称えつつ、「洗っても、たたいても落ちぬ」人生の甘味、人間としてのぬくみを育てていきたいものです。今日午後から行われた本堂での葬儀式でも、四十個の木魚を並べて、遺族の方を中心にお念仏をしました。
第24回念仏会(6月10日)
私は8日から5日間の日程で、久留米市の大本山善導寺を会場にして開かれた布教師養成講座中級前期に参加中。こんなときにも年間計画通りに定例行事は実施されています。今回の念仏会も七名が参加。
住職の法話は、今回の養成講座での実演実習のため書き上げた原稿を、まとめ役のHさんが読み上げてくれました。そのあと一時間の木魚念仏を、参加者が声をそろえて続けます。木魚の座布団も参加者の皆さんが40個分作成してくれました。
養成講座の「題」の一つは「御忌」でした。その概略を紹介します。
御忌・または御忌会とは、法然上人の亡くなられたお命日に、法然上人の恩徳を仰ぎ、心から讃える報恩感謝のための法会のことです。…慶蔵院の境内。…桜に欅に栃に公孫樹…。掃除が大変です。…掃除が、しんどいなー、しんどいなー、と境内の樹を怨めばきりがありません。ところが、しんどいことには変わりがないのですが、掃除を通して、いろんなことを感じることがありました。
こちら側の受け止め方を少し変えるだけで、世界が全然違って見えてくるのです。しんどいと思っても、掃除はしなければならないわけですから、同じ掃除をするのなら、しんどいと思わずに掃除をした方が楽しいわけです。落ち葉や雑草がそのように教えてくれたのです。
しんどい、いやだという、こちら側の計らいをすてて、目の前にきたものを、与えられた、仏様の計らいと受け止めていく。そうすると、おかげ様…と自然に頭が下がってくる…。そんな体験をさせていたたいたわけです。…
6月6日の朝日新聞に「法事のお経 意味が知りたい」という投書がありました。内容をかいつまんで紹介しますと…、
「叔父の法事に出かけた。半時間くらい、全く意味の分からない念仏を聞いて座っていた…、ありがたいお経であるはずなのに、僧侶が念仏で何を伝えようとしているのか知ることが出来ない。わが国の仏教は何百年にもわたり、分らないお経を聞くという浪費を庶民に強いてきた。法事の念仏くらい平易な日本語で唱えようという動きが仏教界に生まれ、聞いて分かる時代が来てほしいものだ」という投書です。
伊勢市、橋本理市 77歳とあります。実は、この方、私のかっての同僚で、尊敬してきた先輩教師です。私は、投書を読んで、この橋本先生にも、浄土宗僧侶として、きちんと答えを用意しなければならないと思いました。…
意味はすぐには分からなくても、どうぞお経の本を手に取っていただいて、私と一緒に、声に出してお経をお唱えください、そして一緒に木魚を叩きながら南無阿弥陀仏とお念仏をお称えしましょうと…。
第23回念仏会(5月13日)
新しく参加されたSさんを含めて5名の参加。
7時半より20分間の法話。9時まで、お念仏を称えました。木魚を叩き出すと、すぐ汗ばんできます。40分は普通のテンポで、残り時間は、少々テンポを上げ気味に、ラストまで。声の高さを上げたり戻したり、各々が精一杯のお念仏を称えます。ロウソクの灯りだけで進めます。終わった後には、「やった…」「気持ち良かった…」という感想が聞こえます。
法話は、中野善英上人の遺墨集より「生けるコマ」を使いました。
「まわれまわれ まわるのをやめたら 倒れてしまう。廻り出したら 倒れていたコマも起き上がる。勢いよく廻っている時には 邪魔があっても 非難があっても驚かぬ。ハジキ飛ばして 平気で廻る。自分が飛ばされるのは 廻り方だ弱いからです。一本の心棒が廻り出したら 大きな胴体もついて廻る。それは偉大なる天地の真理が彼へ乗り移り、神秘の力が内より発するからです。一個のコマと自己を軽んずべからず。コレはこれ 活ける神の みカラダである。」
俳句の季語に「風の色」という言葉があります。風に色がついているわけではないのに、先人たちは、どんな色を感じたのでしょうか。何を色と表現したのでしょうか。
お念仏をしていると念仏の風を感じます。木が揺れるのを見て、風が見えるように、木々の揺れる音で風が聞こえるように、揺れる心にお念仏が見えるのです。そのお念仏の風の「色」は、どんなものなのでしょうか…。皆さん、体験してみたいものですね。
本堂に木魚念仏風の色 格也
第22回念仏会(4月8日 4名参加)
今年度最初の念仏会。一年間、皆出席をとおしたHさんの欠席がさびしい。
法話は中野善英上人の「生活線上の宗教」より、「真珠の玉」。
「真珠貝はー、自分の身に喰い込んだ痛い石粒をも、甘い液をだして、コレを包み化して真珠の玉とする。私たちにもこの『愛の唾液』『血の涙』がほしい。自分を苦しめる不幸や災難も、わたしに真珠の宝石を生ましめんがためです。身に苦痛を感ずる位でないと、真剣にならぬ。真剣にならぬと「智慧も力も」湧かぬ。この世は『苦の娑婆』だが、苦の娑婆が、ちょうど私達には極楽になっている。日々夜々に愛すれば『珠』にならぬものは一つもない。」
ちょっとした障害物や、壁にぶちあたると、すぐにイライラしたり腹を立てたり、不満や愚痴をいってしまう、この私。それが自分を苦しめる不幸や苦痛・災難であっても、真珠貝が真珠をつくり出すように、私の中に「珠」がつくられるように、「智慧と力」を働かせて、与えられたものだと受け入れていく生き方は、どうしたら可能となるのでしょうか。
それは、念仏信仰、南無阿弥陀仏と称えることを杖にしてこそ、可能となる生き方ではないでしょうか。