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写経会

<2009年>

第80回 写経会 12月16日

 参加者13名
 今年最後の写経会、ひさしぶりに参加された方も含めて、賑やかな写経会になりました。法話は、中野善英上人の「生活線上の宗教」より、「専修一行」をとりあげました。

「ポストのごとく 不愛嬌でも ポストのごとく 行商して歩かぬでも
ボツ燃とたっているだけで みなの人が 飛んできて 喜んで郵便を入れてゆく。
人間も平凡なことでいい 一生一つのことを貫いたら
人をひきつけるだけの信用と権威が出来る。
しかし この権威というのは えらい顔をすることでなく降っても照っても 夜でも昼でも 不動の信念で 世のために「立ン棒」役をすることです。」

 写経を毎日、毎日、一枚、一枚と書き続けることは、まさに「一つのことを貫いて」、「人をひきつけるだけの信用と権威」を得ることにつながります。
 その人のもとに、ポストに人が集まってくるように、自ずと人が寄りあってくるのではないでしょうか。そうやって、写経会の仲間が増えていくことはうれしいことです。
 お念仏を称え続けることは、ポストのように成りきることです。お念仏を通して、仏と凡夫が、仏凡一体となって、不離仏。仏と我とが一心同体となったお念仏を、一つのこととして貫き通すことのできるポストになりましょう。


第79回 写経会 12月2日

 参加者10名 91歳の松家さんも元気に参加され、自宅でされた写経の納経も4名の方からありました。法話にとりあげた中野善英上人の言葉…。 

「時計は 一分も進みすぎず 一分もおくれず 年中変哲もなく
 コチ コチ コチと やっている
 平凡なことを 平凡にやるのは 非凡です 素晴らしい非凡です」

 お念仏は、実に平凡といえば平凡、ただ南無阿弥陀仏と繰り返すだけ。最近、戒名の一字一字に南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と称えるようにして、リズムと呼吸が一定になり、声も安定してきて、とてもお念仏をとなえる気持ちが、深まったように感じています。
 声をあげたり、リズムをかえたり、テンポをかえたりすることなく、淡々と一定の速さと高さで続けていくお念仏のよさを感じています。お経と違って、称えることがまさに平凡のようなお念仏、しかし、それを称え続けることは実に非凡なことなのだと読み取れるのではないでしょうか。

 中学校時代に、自分は「平凡に生きることをめざす」と作文に書いて、子どもらしくない、夢や希望や大志というものが子どもにはなくてはならない…という批評をもらいました。しかし、その批評をまともにうけとめる気持ちは、全くなかったことを覚えています。なぜなら、平凡に生きようとすることが自分にとって、なかなか困難なことだと実感としていたから、それを目指そうとしたのだ…という思いが、自分のどこかにあったことを覚えています。 

 60歳を迎えようとしている自分もまた、善英上人の言葉に出会って、「平凡なことを平凡にやる」…このことの重みをしっかりと受け止めて進んでいきたいと思います。
 LinkIcon(ここで、中学校の思い出にふれましたので、12月2日の「住職活動日記」に、中学校時代のことを思い出すままに、書き出してみました。どうぞ、ご覧ください)


第77回 写経会 11月4日

 参加者は8名でした。写経の開始前に、いつも30分ほどの法話をします。今日はこんな話をさせていただきました。
 中野善英上人は、遺墨集の和の中で、このように述べて見えます。

見る影もないススキの原でも、お月さまが出ると、素晴らしい風情になります。
月影の内にススキを見ると、中々美しい
人生の荒野も、信仰の月影を通して、見直すと、中々趣きがあります。
苦労も難儀もお念仏の中から見直せば、不足も不満も別の味になります。

 奈良の曽爾高原の一面のススキの高原を見たことがあります。
太陽に銀色に輝くススキの見事さに胸打たれました。
 『月影の至らぬ里はなけれども眺むる人の心にぞ澄む
は法然上人の歌です。月の光はいつでもどこでも、すべての生きとし生けるものを照らしてくれているが、外に出て月の光を仰ぎ頂いたとき、始めて月の光は私の体や心に差し込んできて私の心や体をきれいに澄ましてくれるというのです。

 『人生の荒野を信仰の月影を通して見直す』の『信仰の月影』とは≪お念仏≫、お念仏唱えているとススキの原に月の光が差し込んでくるように、仏さまの救いの手が私の心に差し伸べられし、すると、人生の苦労も難儀も不足も不満も、月の光でススキが美しく見えるように、別の味わいができるようになってくるというのです。
 お念仏は、不思議な力をもっています。「不離仏」。お念仏と仏さまとは離れ離れにならない。お念仏を唱えている時、その声とともに仏さまは私たちの中にあって、私たちを生まれ変わらせてくれるのです。

 このほど、浄土宗は、絵本作家の葉祥明氏による「阿弥陀経」の世界を
コールマイネーム 大丈夫、そばにいるよ」という絵本にしました。
その一部を紹介します。

人は皆、この世における巡礼者 あなたに起こること あなたが経験することは
全て、あなた自身の 修行のためです それがいかに耐えがたくても 必ず乗り越え
この人生をまっとうする術があります
どんなことがあっても どんなときでも 目をとじ、手を合わせ
ナムアミダブツ、ナムアミダブツ となえてごらんなさい
ほら、心が安らいでくるのを感じませんか?

人は この世を去る時になって ようやく 生きるということの 意味を真剣に考えます
しかし 人は生きている間に たびたび死を想う必要があります  
そうすることで 真に生きることができるようになるのです

悲しみの淵から抜け出せない時には 私を想い 私を呼んでください
あなたが 苦しんでいるとき あなたが 悩んでいるとき
いつもあなたのそばに 私がいることを おぼえておいてください
苦しいときは 私を想ってください 肉体の苦しみ 心の苦しみ
いかなる苦しみであれ 苦しみの中にあるときは いつでも 私のことを想ってください
苦しいときは 私の名を呼んでください
私は決してあなたを 一人で放ってはおきません

心配することはありません あなたはいつも 見護られています 安心してください
どんなことがあっても 大丈夫、大丈夫 すべては 変わります
変わらないものなど この世にはありません
変わらないでいて欲しいものだって 変るのです

 ほんの一部分の紹介です。ぜひ、すべてを読んでください。阿弥陀様の名を呼ぶ時、南無阿弥陀仏と称える時、阿弥陀様は私たちとともにあるのです。それを忘れないでください。


第76回 写経会 10月21日

 参加者10名、新しい方2名が参加して下さいました。他に、家で千枚を目標に写経に取り組み出したFさんからの大量の納経もありました。
 法話は、中野善英上人「遺墨集」より、

「トゲの中からも こんなにいい仏の子が生まれるー
 外から見ただけでは 社会もトゲだらけだが その内から 立派な 美味しい 栗の実がうまれてくる トゲだけを見て捨てずに 実の熟するまで育てていかねばいかぬ このささやかなる掲示板も それを育てる一役です」

 トゲのある栗もみな、生きとし生けるものすべてが仏の子です。私たちもまた、こころにトゲをもっています。言葉にも、行動にもトゲがでてしまうことがあります。しかし、その私たちもまた仏の子なのです。
 社会・世の中もまた、トゲがあり、様々な苦しみや悩みがつきまといます。しかし、これらの悩みも苦しみも、三年、三年また三年、十年坐れば冷たい石も温かくなるというように、トゲも悩みも苦しみも、この私がここに到達するための肥料や栄養であったのかと思える日が必ずやってきます。
 トゲを見捨てることなく、自分の計らいを捨て、仏の子として。仏の大きな計らいの中で、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と今なすべきこと、目の前にあるしなければならないことを、精一杯に取り組むことにより、大きな救いにつながっていくのだと思います。



第74回 写経会 9月16日

 参加者10名、住職活動日記の9月7日、8日付の記事で報告させていただきましたように、「癌ではないか」とビックリさせられるような騒動がありました。その最終検査結果が15日、日赤で出され、細胞の方も全く異常なしとなったわけです。本人よりも以上に、聞かされた檀家や関係者の皆さんが心配してくれて、本当に沢山の方々から、お祈り・お念仏・願かけなど、思いを結集していただいたことを、後から後から伝え聞かせていただいて、思いが撚り合わされることの「ちから」をあらためて感じさせていただきました。
 まさに、写経という日本に仏教が伝来して以来、続いてきた人々の営みに込められた「思い」というものの、「もてるちから」を、今こそ、深くゆるぎのない信仰の対象へと押し上げてまいりたいものだと思います。

 さて、今日の法話は、中野善英上人の「信者へのお便り」より、
 「『イワシの頭も信心から』と言います 信心の心で見れば、イワシの頭でも南瓜のお尻も みな 如来サマ… 明恵上人は いつも大根サマ人参サマとおおせられた。敵もいやな奴も みな如来サマです それよりも 現に自分の身が如来サマである事を知って一層大切にして行きたい 一生は短いから早く熟しないと青いうちから腐る」

 「早く熟さないと、青いうちから腐る」この言葉も大切にいただきたい言葉ですが、今日は、お念仏を深めることにより、「日々の生活の中に如来のみ力が現れてくる」という善英上人の言葉を重くいただきたいと思います。
 大根サマ、人参サマと、すべてのものを「仏の子」として拝む、すなわち「生活を拝む」くらしは、命の中にみ仏の大慈・大悲のいのちを感じ取るこころです。このような「如来のいのちを感じてくらす生き方」は、お念仏信仰を通して養われるのだと思います。心してまいりたいものだと思います。



第72回 写経会 7月15日

 参加者10名。今日の法話、中野善英上人遺墨集「無量寿」より、

「石の上にも十年 十年坐れば 冷たい石もあたたかくなる 悲しいことも
十年 つらいことも 十年です 十年たてば 悲しいことも 悲しくなくなる
つらいことも つらくなくなる そして 闇の中に光が見えてくる」

つらくても、悲しくても、「悩みの影も消えうせ」、
「ものみなを、楽しみてゆく」心になるのにはどうしたら良いのでしょうか。
 関谷上人は言って見えます
「み仏の大誓願を信じて、不断にお念仏をとなえ続けて暮らそう」と。
南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏…称えることを通して信仰を深めていきたいものです。



第71回 写経会 7月1日

 参加者10名。法話は、中野善英上人遺墨集「和」を資料として、父の退院のこととあわせて、「住職活動日記」に記載させていただいた「ご縁1、ご縁2、ご縁3」のお話をつづけてさせていただきました。(そちらをご覧ください)
 今日の出合いを大切にしよう、人生はこれからだ。
中野善英上人、
「無残に切り取られた 桑の株からも 新しい勢いのいい 新芽が張り出して 次代への希望をかかげています。人間も常に つぎの時代へ づぎの時代へと 新しい希望と計画に生きねばいけません。洋々たる希望に充ちて お元気な皆様の お姿を拝し 嬉しゅうございます。 健康第一で 長生きして 努力願います。」
 関谷上人は「人生を無駄なく、一刻一刻、一息一息、真剣に生きてきた人の光顔には、真実が溢れている。人生はこれからだ…」と。



第70回 写経会 6月17日

 参加者、13名。新しく親子で参加された方、自宅で書きためたものを届けてくれた方もありました。法話は、中野善英上人の言葉、「ほめられる時、一番蟲のつく時」…。この言葉を上人は、ほおずきの絵と一緒に書いてみえます。
 この言葉にからめて「智者の振る舞いをせずしてただ一向に念仏すべし」を讃題に、布教師養成講座での15分の実演勉強で行った法話を聴いていただきました。そのあらましを報告します。
 私たちは、なかなか普段からお念仏を続けることができません。法然上人は、示して下さっています。「時々、別時の念仏を修して、心も身をもはげまし、ととのえ、すすむべきなり」と。
 日本子守唄協会の代表 西舘好子さんが「長く歌い継がれている子守唄のリズムは、念仏のリズムと似ている」と書いてみえます。ひたすらにわが子を思う、己を無にした無心なる母の愛情、私利私欲を越えた無私なる母の愛情の集約、「人が生まれながらに持っている命の根源のリズム」が子守唄だというのです。
 そういえば、子守唄は縄文時代からあったそうなのです。この子守唄と念仏のリズムが似ているというのです。また、「ねん、ねん、ねん、」の子守唄の「ねん」は念仏の念でもあるというのです。
 子守唄を通して母と子が一体感を得て安心するように、阿弥陀様と私たちとか一つになる境地「如来とともに一人」の境地は、お念仏を称えることを通して、得られるものなのではないでしょうか。



第69回 写経会 6月3日

 私は、宮川組輪番御忌出席のため、写経を欠席。でも、何にも心配はいりません。こんな時はHさんが、納経を除き、写経会のすべてを進めてくれるからです。打ち合わせもいりません。本堂に写経用の机を整え、受付簿の隣に、今日の法話用の資料を置いて安心して出かけました。
 今日の参加者は13名。読経、法話、写経、座談と、Hさんが仕切ってくれいつものように写経会がすすんだようです。
 法話として、Hさんに読んでいただいたのは「手紙」、「親愛なる子供たちへ」の副題がついています。

 原作詩:不詳 日本語訳詩:角 智織  作曲:樋口了一 
『年老いた私が ある日 今までの私と違っていたとしても
どうかそのままの私のことを理解して欲しい
私の服の上に食べ物をこぼしても 靴ひもをむすび忘れても 
あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい 
あなたと話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても 
その結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい 
あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は 
いつも同じでも私の心を平和にしてくれた 
悲しい事ではないんだ 消え去ってゆくように見える私の心へと 
励ましのまなざしを向けて欲しい 
楽しいひと時に 私が思わず下着を濡らしてしまったり 
お風呂に入るのをいやがるときには思い出して欲しい 
あなたを追い回し 何度も着替えさせたり 様々な理由をつけて 
いやがるあなたとお風呂に入った 懐かしい日のことを
悲しい事ではないんだ 旅立ちの前の準備をしている私に 
祝福の祈りを捧げてほしい 
いずれ歯も弱り 飲み込む事さえ出来なくなるかも知れない 
足も衰えて立ち上がる事すら出来なくなったなら 
あなたが か弱い足で立ち上がろうと私に助けを求めたように 
よろめく私に どうかあなたの手を握らせて欲しい 
私の姿を見て悲しんだり 自分が無力だと思わないで欲しい 
あなたを抱きしめる力がないのを知るのはつらい事だけど 
私を理解してささえてくれる心だけを持っていて欲しい 
きっとそれだけでそれだけで 私には勇気がわいてくるのです 
あなたの人生の始まりに私がしっかりと付き添ったように    
私の人生の終わりに少しだけ付き添ってほしい 
あなたが生まれてくれたことで私が受けた多くの喜びと 
あなたに対する変わらぬ愛を以って笑顔で答えたい 
私の子供たちへ あいする子供たちへ』

 写経会への参加者でこの歌を知っている人はいなかったようです。しかし座談の中では、「自分の手で書き直して、家の壁に貼っておこう」「涙が出て止まらなかった…」「外国で作られた詩。千の風みたいだ…」などの感想がだされたようです。



第68回 写経会 5月20日

 今回の写経会、新しく参加された方も含めて14名が参加。この日は、京都より知恩院発行の月刊誌、「知恩」誌編集人の方々が、取材にみえました。写経会終了後の座談に、一緒に参加していただきました。
 いつもいろんなことを話してくれて笑わせてくれる、写経会への参加、六十回を超えるHさん。「自分が困ったとき神さん・仏さんとあわてて頼んでもあかん。ふだんからちゃんと信心して、こうやって写経会をやっていると、ちゃんとうまいことしてくれる。それを有難いことや、おかげ様…とうけとめていくようにせんといかん」と語ります。
 91歳のMさん、「一枚起請文は頭の中に入っとるよってに、毎晩、布団の中で称えてから眠ります」と、満面の笑顔で話してくれます。
 皆さんが口々に、
「写経会ばかりでなく、念仏会・読経会・戦没者慰霊など、定例行事に常連のように参加してきて、お寺が身近な存在になってきてよかったです…。」
「今回、初めて参加しました。これからも参加していくようにしたい…。」
「元禄時代から、お世話になっている檀家です」
 あっという間に時間が過ぎていきます。

今回の法話は、中野善英上人遺墨集「一色一香」より、「これでいいのか」

 「同じ風鈴の音でも 秋になると、寒く聞こえ 夏の日には、暑く聞こえ 涼しい時には、ウルサク聞こえる。人間はかってなもので 自分の気分次第で 相手を良いの、悪いのと 批評している… 風鈴の音に捉われず 無心に『風の音』を聞け。」

 風鈴の音を伝えてくれる風、風が運んでくれる風鈴の音、風がなければ伝わってこない風鈴の音。風そのものだけなら聞こえない、わからない風の音。無心になるとき風鈴の音が、風の音として響いてくる。風鈴にとらわれず、己にとらわれず、己につながる風に心を澄ます。心の霧がはれていくとき、本当の音が耳に入ってくる…。そこに風の色もお念仏の色も見えてくるかもしれない。



第67回 写経会 5月6日

 あいにくの雨となりました。境内には銀杏と山桜の雌蕊が、一面に落ち出しています。参加者は10名。法話は、中野善英上人の遺墨集「和」より「草原」。

 「涯しなき 層雲の下 大草原 石も土も草も すべて凍りはて、一枚岩のツンドラ シベリアの草原の底にも 如来の大生命は流れて 大地は胎動し 草は萌えている 偉大なる活動の力 日々に生新し発展して 天にも地にも力と光りが充ちている。オオ 私達の内にもこの生命が燃えている 脈うっている…」

 氷におおわれたシベリアのツンドラの大地にも、春がくれば草がはえてくるように、私たちの冷えきった心、霧のかかった心にも常に如来の光は降りそそぎ、生命の息吹を吹き込んでくれます。腹いっぱいにこの光・生命の息吹を吸い込んで、私たちの中に脈打つ生新の生命の炎を燃やしましょう。お腹の中から如来さまの声が聞き取れるまでお念仏を称えましょう。心身一如の大調和。そこに天の声・地の声を聞き取りましょう。
 今回の写経の納経枚数は、54枚です。S氏は、亡くなった奥さんの供養にと、、写経日から写経日まで「般若心経」を毎日一枚写経してみえます。他の方も、家で何枚かを書きあげて納経されています。
 91歳のMさんが、写経と合わせてご先祖と昭和16年に亡くなった子供さんの塔婆供養をしてくださいました。息子さんが車で送り迎えをしてくださっています。



第66回 写経会  4月15日

 参加者11名。風邪の治った91歳のMさん、名古屋からHさんも参加してくれまた。
 午前10からの法話は、中野善英上人「如来と偕に一人」より。

 「我等の生れる時 すでに如来と偕に一人
  我等の死する時 如来と偕に一人
  我等の生きる間 常に如来と偕に一人なり
   我等 絶対に「独り」なる時なし
   如来常に 吾がために「一人」となり給う
  働く時も 如来と偕に一人
  病む時も 如来と偕に一人
   我等 如来を忘るゝこともあるも
   如来 我等を離れ給うことなし
  我等 如来の内に在り
  如来 吾が内に在りて
  如来と我等と 常に「一人」なり
   故に悩みながらも 悩みの中から救われていく
   あやまちながらも あやまちのなかから目醒めて行く
  汝 救われたり
  汝 恵まれたり
  ただひたすらに如来を呼び 如来のみ心に適い
   如来の「み力」の現れんことを祈れ
  しからば如来直ちに応現して全く汝と一人になり給う。
   悦ばしいかな 如来と偕に一人
   尊きかな 如来と偕に一人」

 私たちは、なかなか「如来と偕に一人」の自覚が持てず、悩み、苦しみ、怒り、争い、損得利害の中に右往左往してしまっています。
 そのような私たちであっても、お念仏が深まると、如来様のみ光の中に包まれて生き活かされていることがわかってくるのです。さらには、如来様が自分の内に宿って下さることがわかってきます。
 苦しければ苦しい時ほど、お念仏が腹の底より湧き上がってくるようでありたいものです。
 悩みがあるからお念仏を称えて、如来様のお慈悲を仰ぐのです。ですから悩みがあるからこそ目覚めることができるとも言えるのです。
 一心専念にお念仏を称えて、如来様のみ心にかなうような日々の暮らしができるよう、努めてまいりたいものです。

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